蒼い季節
私の愛した関西について。
私が最も愛していた時代は2007年、B.A.D.とBOYSが一列目で足を踏ん張り、その後ろには4人で身を寄せ合いながら楽しげに笑うOSSaNが居て、まだそのときは自称の段階であった「べてらん達」が脇を固め、若手から選抜されたTop Kidsは初々しさという鎧をまといながらも先輩ファンを引きずりこもうと常に刃を客席にむけていた。そのうえムエタイ向井ブラザーズという飛び道具もあったのだから、濃かった、とにかく濃かった。
あ、当時の藤井流星君からはそのようなやる気が全く感じられなかった話は誰にも内緒やで><なんていうジョークも今の彼がとても素敵なアイドルになっているからこそ言えること。
話を戻して、2006年冬から始まった関西Jr.だけのコンサート(舞台)、受験やらなんやらがあって私の初めては2007年夏の松竹座公演だった。今回はそのときのお話。
ビギナーズラックでうっかり来てしまった最前列のチケットと人生初の手作り団扇を握りしめて着席。周りはほとんどが「お姉さま達」、色々な意味でびくびくしていたのを覚えている。
そして開演
トレンチコートを着た濱田刑事が緞帳前にさっそうと現れ、ロマンティックのイントロと共に幕が上がる。
びっしりとJr.が敷き詰められたステージと客席の熱気がぶつかり合う中で流れる刺激的で大人な歌詞は、会場の温度と私の体温を急上昇させた。
次々と繰り出される個性豊かなユニットメドレー、松竹世界陸上(ちょうどそのときに世間で世界陸上が行われていたからというただそれだけの理由)というテーマを掲げたシャッフルメドレー、目の前でナポリタンやらカレーやらを食べる姿を見せられる食テロレストランコント、リアデラやDeep in your heartなどのザ・ジャニーズ曲…
そして新曲「夢色クロニクル」の濱大のハモリに涙した。シンメを知ってしまった。私にとって最初で最後のシンメ。
その後は友人知人に譲ってもらいチケットを増やした。中間担の友人と入った公演で濱淳ハプニングチューを見てしまったのも今となっては良い思い出である。
それは単純に楽しかったというのもあるけれど、一ヶ月の間に何回も髪色髪形を変えるメンバーをその都度自分の目で確認しておきたかったというのと(青メッシュのエクステをつける子もいたね大人に怒られたみたいだけど。個人的には好きだった)、日々生まれる「今」の彼等の「今」の話題にネタについていけなくなるのが怖かったから。彼等の内側の人間で居たかった。
あの時代に、アイドルとの適切な距離感の線をひくものさしを忘れてきてしまったのも事実。
限られた人達によりつくられたお城、牢獄、沼、どれ??私にとっては楽園だった。
アイドルとファンが自分たちの間だけで理解出来る許し許されるだらしない楽しさを共有することで成立していた奇妙な時間。互いを仲間だと心から思えた短い時間。
次の夏には新しいユニットが生まれひとつのユニットが解体されるなんて思わずに。いつまでも楽しいだけではいられないことを、当時の私達は知らなかったのだ。
濵田崇裕②
つづき
濱田を好きになり、最後の「関ジャニ∞の」松竹座の夏が始まった。しかし、サマースペシャルでの濱田の記憶はあまりない。この時点ではまだ降りるとまではいかない程度の気持ちだったのだろう。(そしてここでも何故かB.A.D.の記憶はある、こういうところが勝てなかった原因のひとつだったのだろうな…という話はまたいつか)
しかしその一ヶ月後、撃ち落とされた。
当時の関ジャニ∞レギュラー番組「ほんじゃに」ではEDに歌収録を流すことがあり、それが私にとってJr.のパフォーマンスをじっくりと見る初めての機会だった。
B.A.D.が「Magnetic」を披露し後ろから(当時は3人の)BOYSが飛び出してきた。曲はそう「Love or Guilty」(おそらく松竹座でも披露していたのだろうけれども、印象に残っていない。)
歌いだしの濱田に心奪われ、思い切り殴られたかのように頭が痛くなった。ゾッとするくらいに冷たい瞳、低くも甘い声、そして何よりも彼が身体に纏う周りのすべてを切り裂くかのような鋭い空気…
ちょうど8月末に東京で行われた「渋谷すばるwith大倉BAND」(※あの公開処刑ショプバね)のMCで濱田の実家が農家だということやこの夏は茄子の出来が良かったなどのほんわかエピソードを仕入れた直後であったこともあり、そのGAPにHITOMEBOREならぬHUTAMEBORE
ここから、本当の意味で濱田担として歩き始めた。
後に、彼自身それほどほんわかしたキャラクターではなくむしろ結構尖った部分のある人物であるということが発覚するのだけれど。なんせ僕たち大阪ヤンキー少年、当時の彼(等)を知らずに難波あたりですれ違おうものならば喪の私はくるりと踵を返し小走りで逃げたことだろう。だって喪だもん。
今の柔らかい彼に物足りなさを感じることもあるけれど、時折見せる温度も湿度も感じさせない姿は昔のそれに色気もプラスされていてたまらなく良い。そしてその度に離れられないと感じてしまうのである。
次は濵田崇裕と「関西」について。私にとっての「関西」は2006年~西日本ツアー広島までを指している。中でも一番は2007年、まだデビューなんて夢のまた夢のただただ楽しいだけだった時間は私の宝物。内輪だけで通じる話やネタばかりだった現場、内輪だけだったから許されたもの。
今の彼等がそれをすることは許されないけれど、いや当時もけして許されるものではなかったのかもしれないけれど(w)、知っている者としてはいつまでも忘れたくはない「蒼い季節」をときどき取り出してそっと愛でることは許してほしいと思う。
濵田崇裕
見つけたと思っていたのに、本当は捕えられていた。
今更なにわともあれの話
今年の春に大阪松竹座と新橋演舞場で行われたなにわともあれほんまにありがとうについてどうしても今年中に残しておきたいことがあって、キーを叩く。
記念すべき最初の投稿にも関わらず、濱田の話ではない。あるふたりの記憶の記録。
それは大阪公演ラストのWアンコール、バンザイ夢マンサイでの出来事。一度降りた幕が上がりそれと共にイントロが流れ7人が登場、そして私は濱田をロックオン。基本的に「近くの他メンより遠くの自担派」(松竹座に近いも遠いもないが)なので公演終了後に流れるレポを読んで初めて知る他メンのわちゃわちゃも少なくない。
だからどうしてその瞬間の淳太を「B.A.D.」を目撃してしまったのかは今でも分からない。
イントロが鳴り響く中、好き勝手に動き回る5人の前でいつもと同じポーズ(バンザイ~のスタンバイ、オリジナルに忠実に)でステージに膝をつく淳太とあっくん。少し離れた一直線上で、目も合わさずに。
そしていつもと同じタイミングで同じポーズで立ち上がるふたり。淳太だけがあっくんの横顔に苦笑いのような表情を浮かべながら何か言葉を投げかけていた。あっくんはそれに気がついてはいなかった。
その後はふたりともそれぞれ他メンとわちゃわちゃ(というよりむちゃくちゃ)して、何事もなかったかのようにふるまっていた。
シンメなら当たり前、目を合わさずに動きを揃えることなんて朝飯前だろう。なんせ元「B.A.D.」である。BOYS担だった私も関西Jr.の現場で幾度となく似たような場面を見た、それは自ユニの場合でも。あらためてそれに感動したり感心することなんて無かった。今更。
なのに何故、半年が経とうとしている今でもその光景が忘れられないのだろう、目に焼き付いて離れないのだろう。
多分、それは彼等が必死に7になろうとしていた時期に思わず「出てしまった」2だったから。ファンの前でそれぞれの役割を決めて、一人一人が自分の場所を手探りで探して…
もしかしたら裏で示し合わせていたのかもしれない、もしかしたら気が付かないうちにアイコンタクトでもしていたのかもしれない。
客席で突っ立っているだけのヲタクには何も分からない。
それでも、その瞬間の私には彼等のその行動が偶然生まれてしまったものに思えた。あっくんは淳太のことを見てはいなかったし、淳太のも立ち上がった後に気が付いて思わずこぼれてしまった笑みのように見えた。
ただただ羨ましかった。「ジャニーズWEST」になって初めて素直に「B.A.D.」を良いと思えた。後者はただ単に自担のシンメを愛するあまりの行き過ぎた感情のせいであって、けして個人個人のことが本当の意味で嫌いだったわけではなかったのだけれど。まあ、私も若かったということで。
春のことだから記憶と現実に多少の違いはあるかもしれないけれど、それでもどうしても自分の言葉で残しておきたかったもの。