子供部屋

硝子のシューズは痛いだけ

ごめんね青春②

今回は大好きなふたりへの「ごめんね」

 

 

二人になったBOYSの「売り」って何だろう、当時はずっと考えていた。ふたりでデビュー出来るなんて甘っちょろい考えがあったわけではないけれど、同じ未来にふたりが居てほしいと願っていた。

二人になったことでもうひとつの二人組と比べるようになった。

背中を預けられるのがB.A.D.なら、腹を見せ合えるのがBOYSだったのかな。

 

 

当時の(濱田担の私からは)B.A.D.とB.A.D.担はお互い(の担当)を「仕事相手としては最高のパートナー」と、認め合いながらもある意味では割り切っていたように見えていた。

今よりもB.A.D.萌え!ワチャワチャ萌え!みたいな人は少なかったように思う。

BOYSは私の例を。相方といる自担が好きで何なら濱田より濱大が好き(笑)だった、濱大の濱が好きでほぼ同じ温度で大が好きだった。

本人達も二人でいることを大事に、二人でいることを最大の武器にしていたように見えた。

ふたりの溶け合うようなハモリ、力強いダンス、正反対のタイプなのに双子の兄弟のように同じ表情で笑う顔...

 

大好き、今でも。

 

最初で最後のシンメよ。

 

 

私が二人のBOYSに意味を見出し(せ)たのは、「さよなら~二人の空~」が披露された2009年のBOYSコンだった。

ふたりのハモリを生かした曲なら夢色クロニクルが既にあったし、今でも一番のBOYS楽曲といえば夢色を選ぶ。

けれども、あの曲は二人のBOYSを表していたし二人体制だから歌えたふたりにしか歌えないものだったから。

恋の歌とも友情の歌ともつかない、二人の実体験を元にした歌詞、それは互いの思い出を共有する作業のようで。それは互いの秘めたる柔らかな部分を見せ合うようで。

まさに腹(のように柔らかい部分)を見せ合えるところ、それが彼等の強みだ、二人のBOYSの色だとそのとき確信出来た。

皮肉にもそれは後にふたりの状況と重なるものとなってしまったけれど。

 

 

2009年夏の舞台からメインメンバー内でいわゆる兄組弟組の分かれ方が顕著になってきた。兄組担弟組担なんて言われ方もしたけれど、私は兄組(BBV)と括られるのが好きではなかった。私が好きなのは真ん中のBだけだったからと。ふたりがふたりだけでいられれば他に何もいらなかった。

BOYSが失くなるまで、当時の私は相方といる濱田以外の組合せに何の興味も抱きはしなかった。

同期だろうが親友だろうが、興味は無かった。兄組と呼ばれた人達の中でも明らかな温度差があるのも気に入らなかった。自担の足枷だと感じていた。

そのくせに、BOYS内で少しずつ濱田に傾きだした小さなけれども確かな優勢の空気にニンマリしていた。

 

まずひとつめは2010年の冬、BBVでコンサートが決まって、その中でシャッフルユニットがあって、桐山濱田浜中の三人でMonsterを披露した。

 

選ばれたと感じた。

 

BBVでBの中から選ぶなら桐、Vの中から選ぶなら浜は順当な流れで、今までならだいたいの場合二つ目のBからは大が選ばれることが多かった。BOYSの場合はあまりはっきりしないことも多かったけれど、クレジットの順番や舞台などの立ち位置は大>濱がほとんどだった。

正直、嬉しかった。弟組の勢いに焦りを感じていた中での小さな勝利は私を気持ちよくさせた。

 

二つ目は、東西歌合戦。

当時の関西Jr.全体からたったの5人選抜の中に兄組からは桐山と並んで濱田がいた。ここでも、相方ではなく濱田が選ばれた。

ひとりでも大丈夫なのではないかと、そんな考えが芽生えていった。

実際(この時期かは不明だが)、本人もひとりでもイケるのではと後の一万字インタビューで語っている。

 

 

そんな気持ちを抱えたまま、あけおめに行き、アンコールで彼等から全国ツアーの発表を聞いた。

泣き崩れる者、ハイタッチをして喜び合う者達、ガッツポーズをする者...

鼻を啜る音や拍手の鳴り響く客席の中で、静かに流した涙の味は今でも忘れられない。

後に「全国」ツアーではなく「西日本」ツアーだと知らされても、彼等にとって大きな一歩であったことには変わりない。

 

 

記念すべき一発目の地は、広島。BOYSが存在した最後の地。

もっと楽しめば良かった、たとえあけおめと同じセットリストだろうと。

Jr.と担当に約束された「今度」なんてないのに。

 

次のツアー会場に、BOYSは無かった。

その後もずっと。

 

信じられなくて信じたくなくて、その後のチケットは譲りに出してしまった。

 

 

 

次に濱田を見たときには、彼は本当にひとりだった。

これは悪い夢だと何度自らに暗示をかけようとしたか分からない。けれども、冷えきった城ホールの空気がそれを許してはくれなかった。

まさにどういう顔をすればいいか分からない私に笑いかけ手を振り返した彼を今でも忘れることが出来ない。

泣き顔と笑い顔はよく似ているのだと、そのとき知った。

 

 

 

 

それ以降約2年間、関西の現場へ行かなくなった。

濱田担を降りたわけではない。

「ふたり」を失ったことを、現実を受け入れることが出来るようになるまで茶の間でいることにした。濱田だけをもう一度まっすぐに見つめる為に。

その間に彼もいなくなってしまうとは考えたことは無かった。絶対にデビューしてくれる人、するべき人だからと。

根拠のない自信は、好きだからという単純な理由。

約2年かかった。その間、ある一人の男の子を追いかけていた話はまたの機会に。

 

 

 

 

 

 

ごめんね。

もっとBOYSだけを見つめてBOYSだけの良い部分だけを信じてあげれば良かった。あえての「あげれば良かった」、悪いところね悲劇のヒロインぶる癖は。


だいたいごめんねなんて言う資格すらないわ、ヲタクには(笑)


私が謝りたいだけ、ただごめんねと言わせて。


自分を楽にしてあげる為のごめんね。

全力でBOYSを生きた当時の彼等へのごめんね。

今現在もそれだけが心残りな自分へのごめんね。



自分のテリトリーで書きなぐるくらいは許してよ。

 

ごめんね青春①

ドラマの話ではない。

今回は4人と2人のBOYSについてのお話、ずっとずっと吐き出してしまいたかったもの。あらゆる方面へのごめんねと共に。

 

 

 

08年の夏から、BOYSは2人体制となった。そのことに対しての悲しみはあまり無かったように記憶している。私は4人のBOYSという存在を愛していたわけではない。私が愛していたのはあくまでも濱大だった。勿論、太太(あえて懐かしい呼び方で表記してみる)は好きだ、好きだった。コンサートで4人がわちゃわちゃする姿やラジオでくだらない話で盛り上がる様子は女子が思い描く男子高の昼休みそのもので、それを覗き見しているかのような楽しさに当時はワクワクドキドキさせられたものだ。理想の「男子たち」、共学ならば「ちょっと男子ー!ちゃんと掃除してよ!!」男子たち、それが4人のBOYSだった。

私が気にしていたのは魅せ方の差である。スキルの話ではなくそれ以前の、振りが入っていなかったりメリハリが無かったりという細かいところが気になって仕方が無かった。その点で、どうしても私は4人のパフォーマンスが好きにはなれなかった。100%の気持ちで4人のBOYSを愛せなかった、濱大と太太への気持ちの量にも差が出来た。

 しかし、2人になってからはそれはそれで物足りなさを感じていた。「濱大」としての空気感は何も変わらなかったけれど、2人体制のBOYSは「僕たち大阪ヤンキー少年」というコンセプトが薄れてしまったように思えたのである。ふたりになってからのBOYS曲Give meもStay goldも好きだったけれど、今までの「BOYSらしさ」はそこには無かった。

2人体制になってしばらくして気が付いた、ギャルとふわふわの二面性を持つ龍太と、愛すべき馬鹿(デカい)薫太というマスコット性の高い2人が「BOYSらしさ」の大事な部分を形成していたのだということに。

私はわがままで勝手で最低だ。結局はBOYSとしてのかっこいい濱大が見たいがために太太にいてほしいとそのとき思った。

 

これがひとつめの懺悔。

 

次の記事はBOYSとB.B.V.と呼ばれた男たちについて。

少しずつ2人のBOYSをBOYSとして受け入れ始めた矢先のB.B.V.という括り。

B.B.V.としてではなくどうせならば最後までBOYSのままで消滅して欲しかったという思いが今でも拭えない一人の濱田担の話。

 

蒼い季節

私の愛した関西について。

私が最も愛していた時代は2007年、B.A.D.とBOYSが一列目で足を踏ん張り、その後ろには4人で身を寄せ合いながら楽しげに笑うOSSaNが居て、まだそのときは自称の段階であった「べてらん達」が脇を固め、若手から選抜されたTop Kidsは初々しさという鎧をまといながらも先輩ファンを引きずりこもうと常に刃を客席にむけていた。そのうえムエタイ向井ブラザーズという飛び道具もあったのだから、濃かった、とにかく濃かった。

 

あ、当時の藤井流星君からはそのようなやる気が全く感じられなかった話は誰にも内緒やで><なんていうジョークも今の彼がとても素敵なアイドルになっているからこそ言えること。

 

話を戻して、2006年冬から始まった関西Jr.だけのコンサート(舞台)、受験やらなんやらがあって私の初めては2007年夏の松竹座公演だった。今回はそのときのお話。

 

ビギナーズラックでうっかり来てしまった最前列のチケットと人生初の手作り団扇を握りしめて着席。周りはほとんどが「お姉さま達」、色々な意味でびくびくしていたのを覚えている。

 

そして開演

 

トレンチコートを着た濱田刑事が緞帳前にさっそうと現れ、ロマンティックのイントロと共に幕が上がる。

びっしりとJr.が敷き詰められたステージと客席の熱気がぶつかり合う中で流れる刺激的で大人な歌詞は、会場の温度と私の体温を急上昇させた。

次々と繰り出される個性豊かなユニットメドレー、松竹世界陸上(ちょうどそのときに世間で世界陸上が行われていたからというただそれだけの理由)というテーマを掲げたシャッフルメドレー、目の前でナポリタンやらカレーやらを食べる姿を見せられる食テロレストランコント、リアデラやDeep in your heartなどのザ・ジャニーズ曲…

そして新曲「夢色クロニクル」の濱大のハモリに涙した。シンメを知ってしまった。私にとって最初で最後のシンメ。

その後は友人知人に譲ってもらいチケットを増やした。中間担の友人と入った公演で濱淳ハプニングチューを見てしまったのも今となっては良い思い出である。

 

それは単純に楽しかったというのもあるけれど、一ヶ月の間に何回も髪色髪形を変えるメンバーをその都度自分の目で確認しておきたかったというのと(青メッシュのエクステをつける子もいたね大人に怒られたみたいだけど。個人的には好きだった)、日々生まれる「今」の彼等の「今」の話題にネタについていけなくなるのが怖かったから。彼等の内側の人間で居たかった。

あの時代に、アイドルとの適切な距離感の線をひくものさしを忘れてきてしまったのも事実。

限られた人達によりつくられたお城、牢獄、沼、どれ??私にとっては楽園だった。

アイドルとファンが自分たちの間だけで理解出来る許し許されるだらしない楽しさを共有することで成立していた奇妙な時間。互いを仲間だと心から思えた短い時間。

 

 

次の夏には新しいユニットが生まれひとつのユニットが解体されるなんて思わずに。いつまでも楽しいだけではいられないことを、当時の私達は知らなかったのだ。

濵田崇裕②

つづき

 

 

濱田を好きになり、最後の「関ジャニ∞の」松竹座の夏が始まった。しかし、サマースペシャルでの濱田の記憶はあまりない。この時点ではまだ降りるとまではいかない程度の気持ちだったのだろう。(そしてここでも何故かB.A.D.の記憶はある、こういうところが勝てなかった原因のひとつだったのだろうな…という話はまたいつか)

 

しかしその一ヶ月後、撃ち落とされた。

 

当時の関ジャニ∞レギュラー番組「ほんじゃに」ではEDに歌収録を流すことがあり、それが私にとってJr.のパフォーマンスをじっくりと見る初めての機会だった。

 

B.A.D.が「Magnetic」を披露し後ろから(当時は3人の)BOYSが飛び出してきた。曲はそう「Love or Guilty」(おそらく松竹座でも披露していたのだろうけれども、印象に残っていない。)

 

歌いだしの濱田に心奪われ、思い切り殴られたかのように頭が痛くなった。ゾッとするくらいに冷たい瞳、低くも甘い声、そして何よりも彼が身体に纏う周りのすべてを切り裂くかのような鋭い空気…

 

 

ちょうど8月末に東京で行われた「渋谷すばるwith大倉BAND」(※あの公開処刑ショプバね)のMCで濱田の実家が農家だということやこの夏は茄子の出来が良かったなどのほんわかエピソードを仕入れた直後であったこともあり、そのGAPにHITOMEBOREならぬHUTAMEBORE

 

ここから、本当の意味で濱田担として歩き始めた。

 

後に、彼自身それほどほんわかしたキャラクターではなくむしろ結構尖った部分のある人物であるということが発覚するのだけれど。なんせ僕たち大阪ヤンキー少年、当時の彼(等)を知らずに難波あたりですれ違おうものならば喪の私はくるりと踵を返し小走りで逃げたことだろう。だって喪だもん。

 

今の柔らかい彼に物足りなさを感じることもあるけれど、時折見せる温度も湿度も感じさせない姿は昔のそれに色気もプラスされていてたまらなく良い。そしてその度に離れられないと感じてしまうのである。

 

 

次は濵田崇裕と「関西」について。私にとっての「関西」は2006年~西日本ツアー広島までを指している。中でも一番は2007年、まだデビューなんて夢のまた夢のただただ楽しいだけだった時間は私の宝物。内輪だけで通じる話やネタばかりだった現場、内輪だけだったから許されたもの。

 

今の彼等がそれをすることは許されないけれど、いや当時もけして許されるものではなかったのかもしれないけれど(w)、知っている者としてはいつまでも忘れたくはない「蒼い季節」をときどき取り出してそっと愛でることは許してほしいと思う。

 

 

濵田崇裕

見つけたと思っていたのに、本当は捕えられていた。

 
 
 
今回は濱田について、私の中の彼についてのお話。
 
私が彼を好きになったのは2006年夏のことだった。当時の私は関ジャニ∞のある一人の担当をしていた。だから関西Jr.についてもぼんやりとは把握していた。
 
ぼんやりとというのは、辛うじて桐山中間だけは顔と名前が一致するという程度である。二人ともそれぞれが覚えやすい顔をしていたこと、そして「B.A.D.団」の存在も大きかった。
 
濱田はというと、その他大勢のJr.のうちの一人という認識…いやそれすら無かったかもしれない。
 
2006年といえば、松竹座で関ジャニ∞サマースペシャルが行われた最後の年である。その稽古場に関西ローカル(他の地域でも放送されていたかもしれない)の情報番組「なるトモ!」が潜入した。
 
レポーターが差し入れしたかき氷を頬張るメンバーを可愛い可愛いとニマニマしながら見ていたら、関西Jr.の自己紹介コーナーが始まり当時メインを張っていた5人のお兄ちゃんJr.達(チャラいとにかくチャラい)が前に出てきた。
 
これがすべての始まりだった。
 
一人一人カメラに向かっての自己紹介。まずは相方
 
(°∀°)
 
ナニコノヒトカッコイイ
 
惚れた、うん。タイプではないけど相方とかそういうの抜きでかっこいいなと思ってた最後まで。
 
 
そして次
 
(***°∀°***)💘
 
そう、まさにHITOMEBORE
 
濱田にHITOMEBORE 
 
「好き(顔が)!!!!!!!!!!!!!」
 
好みの顔の芸能人はこの世に沢山いても、この人の顔がまさに私の理想の顔だという人と巡り会える(※気持ち悪い表現ですみませんね)確率はそう高くはないだろう。
 
だけど、私は出会ってしまった。
 
Jr.担のいろはどころか、元々SMAP(バックは外部ダンサー)から関ジャニ∞に一気に降りた当時の自分はジャニーズJr.という存在自体をあまりよく理解していなかった。
 
だけど、幸か不幸かその年の冬から松竹座は関西Jr.のものとなった、関ジャニ∞から関西Jr.が受け継ぐこととなった。
 
校則でアルバイトも出来ないような学生でもお小遣いやお年玉でJr.担が出来てしまう環境が整ってしまった。
 
ま、そこからずるずると今に至るというわけで。
 
コンパクトにまとめようとしてはみたもののそれなりの年月がひとつに収まるはずもなく、そしてもうそろそろ疲れてきたのもありこれ以降の話は…
 
 
 
次の記事に続く
 
更新日は近日(予定は未定)
 

今更なにわともあれの話

今年の春に大阪松竹座新橋演舞場で行われたなにわともあれほんまにありがとうについてどうしても今年中に残しておきたいことがあって、キーを叩く。

 

 

記念すべき最初の投稿にも関わらず、濱田の話ではない。あるふたりの記憶の記録。

 

 

それは大阪公演ラストのWアンコール、バンザイ夢マンサイでの出来事。一度降りた幕が上がりそれと共にイントロが流れ7人が登場、そして私は濱田をロックオン。基本的に「近くの他メンより遠くの自担派」(松竹座に近いも遠いもないが)なので公演終了後に流れるレポを読んで初めて知る他メンのわちゃわちゃも少なくない。

 

だからどうしてその瞬間の淳太を「B.A.D.」を目撃してしまったのかは今でも分からない。

 

イントロが鳴り響く中、好き勝手に動き回る5人の前でいつもと同じポーズ(バンザイ~のスタンバイ、オリジナルに忠実に)でステージに膝をつく淳太とあっくん。少し離れた一直線上で、目も合わさずに。

 

そしていつもと同じタイミングで同じポーズで立ち上がるふたり。淳太だけがあっくんの横顔に苦笑いのような表情を浮かべながら何か言葉を投げかけていた。あっくんはそれに気がついてはいなかった。

 

その後はふたりともそれぞれ他メンとわちゃわちゃ(というよりむちゃくちゃ)して、何事もなかったかのようにふるまっていた。

 

 

シンメなら当たり前、目を合わさずに動きを揃えることなんて朝飯前だろう。なんせ元「B.A.D.」である。BOYS担だった私も関西Jr.の現場で幾度となく似たような場面を見た、それは自ユニの場合でも。あらためてそれに感動したり感心することなんて無かった。今更。

 

なのに何故、半年が経とうとしている今でもその光景が忘れられないのだろう、目に焼き付いて離れないのだろう。

 

多分、それは彼等が必死に7になろうとしていた時期に思わず「出てしまった」2だったから。ファンの前でそれぞれの役割を決めて、一人一人が自分の場所を手探りで探して…

 

もしかしたら裏で示し合わせていたのかもしれない、もしかしたら気が付かないうちにアイコンタクトでもしていたのかもしれない。

 

客席で突っ立っているだけのヲタクには何も分からない。

 

それでも、その瞬間の私には彼等のその行動が偶然生まれてしまったものに思えた。あっくんは淳太のことを見てはいなかったし、淳太のも立ち上がった後に気が付いて思わずこぼれてしまった笑みのように見えた。

 

ただただ羨ましかった。「ジャニーズWEST」になって初めて素直に「B.A.D.」を良いと思えた。後者はただ単に自担のシンメを愛するあまりの行き過ぎた感情のせいであって、けして個人個人のことが本当の意味で嫌いだったわけではなかったのだけれど。まあ、私も若かったということで。

 

 

春のことだから記憶と現実に多少の違いはあるかもしれないけれど、それでもどうしても自分の言葉で残しておきたかったもの。