私が同担を拒否する理由
「最強の10人」と呼ばれた男達
昔むかし関西の地にBBVと呼ばれた男達がいた。
ほとんどの人々は彼等を讃え、当の本人達も自らを信じ互いを信じ10人でてっぺんを獲ると誓った。
ほとんどの人々、は。
前年の2009年からその予兆はあった。
初めてお芝居としての松竹座という舞台を受け継いだ夏、メインキャストとされたのがこの10人だった。
この舞台のテーマソングとして生まれたのが「BIG GAME」である。
この曲がそれから約2年間の10人+7WEST(+その他)という構図が出来る大きなきっかけとなった。
しかし、同年の冬は前年と同じようにユニット別でコンサートが行われ10人という体制がそれほど強調されることは無かったように思う。10人で太鼓を披露することはあったけれど、そのくらいだ。
本格的にBBVと呼ばれ始めたのは、2010年の冬からである。
BBVは公式の呼び名だ。
冬の松竹座の日程が発表され、そこで初めて彼等はBBV(正確な表記はB.B.V.)と称された。
私はパソコン画面に映し出された表を見つめながらひとつのことだけを考えていた、
「BOYSはどうなるの」
ふたりになってふたりだけでやっていくことに薄々限界を感じていたものの、それでも「ふたり」が好きだった。ただふたりで、ふたりだけの世界で楽しくやってくれればそれで良かった。
ヲタクのエゴでしかないのは百も承知で、もう少しの間だけ生温い楽園で遊んでいたかった。
次に、3ユニットが合わさることでBOYS(そして濱田)が得られるメリットと発生するデメリットを天秤にかけた、半分半分だ。
序列が上の者たちと組むことは、じわじわと下げられつつあった自ユニにとってチャンスでもあったが、下の者たちと組むことは自分たちまでその位置まで落ちてしまう危険性があった。
それに、10人が10人全員同じ温度でアイドルという仕事への情熱を燃やしているようには見えなかったから。
最低かな。ごめんなさいね口が悪くて、でもこれが当時の私の本音。
ひとりひとりは好きだったけれど、それは別の括りだったから私には関係が無かったからよ。
だって自担にはデビューして欲しかったから、自ユニにはデビューして欲しかったから。どんな形になったとしてもデビューして欲しかったから。
「ふたりで」とは言わないから、ふたり一緒にデビューして欲しかった。
相方だからじゃない、一人のアイドルとして好きだった。
グッズだって同じだけあるよ、捨てられなくて残したまま。良い終わり方じゃなくても私にとっては大切な思い出だから。かけがえのないものだから。これだけは誰にも汚させない。
複雑な想いを抱きながら書き込んだ振込用紙、結果、悪魔のような倍率の中で2公演分のチケットを手に入れることが出来た。
優馬がゲスト出演した公演と10人だけの公演それぞれ一公演ずつだ。
ステージに立つB.A.D.はやっぱり華があって、それは10人で並ぶと余計に際立った。悔しかった。
そして、やはり数人のメンバーからは温度差が感じられ苛立つこともあった。
そんな複雑な想いを抱えているこちら側に比べ楽しそうにはしゃぐ自担を見ているのは複雑だった。
それでいいのか、こんな場所で満足するのか。ここにいても一番にはなれないし何処にも行けないのに。
まるで竜宮城だと思った、このままでは自担はこの場所で歳だけとってしまうと。
すぐ後に崩壊した城跡を見ながら、私は少し泣いて少しほっとした。
センター
今回は私から見た、ひとりの濱田担から見たセンターのあの子のお話。
膜
「皆さんの為に全力を尽くし生きていくことを誓います」
濱田の震える唇から絞り出された愛の言葉に、今も私は縛りつけられている。
2013年冬に大阪松竹座でおこなわれた関西Jr.クリスマスパーティーG公演(濱田神山藤井メイン公演)のオーラスでの出来事だ。
ゲームコーナーの敗者である彼に科せられた罰ゲームは、自分のファンへの愛のメッセージだった。(今思えば罰は酷いな、罰とはw)
ゲスト含む仲間たちに冷やかされながら0番に座りこんだ彼は、いつものように照れ笑いを浮かべながら話し始めるのかと思いきや、今まで見たこともないような怖いくらいに真剣な顔で口を開いた。
最初に聞いたのは謝罪の言葉だった。
心配をかけたこと、迷惑をかけたこと…その両方が彼のせいではないにしろ。彼が伝えたかったことは「ごめんね」だった。
その後は入所してから今までのことをつらつらとけして上手ではないけれど誠実に言葉をつむぐ姿をただただ見つめることしか出来なかった。客席だけでなく、ステージにいた仲間たちでさえも。
濱田と濱田担の為だけの時間が終わり、水を打ったように静まりかえった松竹座。
誰か(確か淳太)の「泣いてるん?」という言葉を聞いてはじめて私は彼が涙を流していることに気が付いた。
「泣いてない!!!!」
そう叫び強がる彼の背中が子どものように小さく見えた。
濱田は泣かない。
どんなときも笑ってた。
だからこっちも笑うしかなかった。
なのに最後の最後で、Jr.として誕生日を迎える(た)最後に、涙を流した。それも自分のファンの為に。
「皆さんの為に全力を尽くし生きていくことを誓います」
冒頭の言葉で締めくくられた愛のメッセージは、今までのものと重みが違っていた。
簡単に「愛してる」と口にすることが出来る彼。それはあくまで「アイドル」濵田崇裕から発されるもの、だから安心できた、発信するアイドルと受信するファンの間だけで許される罪の無い遊びにしかすぎなかった。
それに、その言葉は自分のファンの為だけではなく関西Jr.のファン全体に向けられることがほとんどだった。
なのにどうして、流れる涙をぬぐいもせずに、最後の最後に、自分のファンにだけに向けた愛の言葉をくれたのか。「アイドル」濵田崇裕ではなくひとりの人間として誓いを立ててくれたのか。
言葉を口にする度に彼の身体から膜のようなものが剥がれ落ちるのが、私の目には確かに見えた。アイドルの膜が。
それは次のコーナーに移ると同時に、再び新しいものが彼にまとわりついて再び「アイドル」濵田崇裕が姿を現した。
ほんのわずかな時間だったけれども、確かにあの瞬間、私はひとりの人間としての濵田崇裕を目撃した。
何年何十年と時が経とうが遠い将来に彼の担当を降りるときが来ようが、2013年12月20日にある成人男性から貰ったひと足早いクリスマスプレゼント、いやプロポーズを私は一生忘れない。
13月
濱田の担当になって今年の夏で丸9年になる。
ごめんね青春②
今回は大好きなふたりへの「ごめんね」
二人になったBOYSの「売り」って何だろう、当時はずっと考えていた。ふたりでデビュー出来るなんて甘っちょろい考えがあったわけではないけれど、同じ未来にふたりが居てほしいと願っていた。
二人になったことでもうひとつの二人組と比べるようになった。
背中を預けられるのがB.A.D.なら、腹を見せ合えるのがBOYSだったのかな。
当時の(濱田担の私からは)B.A.D.とB.A.D.担はお互い(の担当)を「仕事相手としては最高のパートナー」と、認め合いながらもある意味では割り切っていたように見えていた。
今よりもB.A.D.萌え!ワチャワチャ萌え!みたいな人は少なかったように思う。
BOYSは私の例を。相方といる自担が好きで何なら濱田より濱大が好き(笑)だった、濱大の濱が好きでほぼ同じ温度で大が好きだった。
本人達も二人でいることを大事に、二人でいることを最大の武器にしていたように見えた。
ふたりの溶け合うようなハモリ、力強いダンス、正反対のタイプなのに双子の兄弟のように同じ表情で笑う顔...
大好き、今でも。
最初で最後のシンメよ。
私が二人のBOYSに意味を見出し(せ)たのは、「さよなら~二人の空~」が披露された2009年のBOYSコンだった。
ふたりのハモリを生かした曲なら夢色クロニクルが既にあったし、今でも一番のBOYS楽曲といえば夢色を選ぶ。
けれども、あの曲は二人のBOYSを表していたし二人体制だから歌えたふたりにしか歌えないものだったから。
恋の歌とも友情の歌ともつかない、二人の実体験を元にした歌詞、それは互いの思い出を共有する作業のようで。それは互いの秘めたる柔らかな部分を見せ合うようで。
まさに腹(のように柔らかい部分)を見せ合えるところ、それが彼等の強みだ、二人のBOYSの色だとそのとき確信出来た。
皮肉にもそれは後にふたりの状況と重なるものとなってしまったけれど。
2009年夏の舞台からメインメンバー内でいわゆる兄組弟組の分かれ方が顕著になってきた。兄組担弟組担なんて言われ方もしたけれど、私は兄組(BBV)と括られるのが好きではなかった。私が好きなのは真ん中のBだけだったからと。ふたりがふたりだけでいられれば他に何もいらなかった。
BOYSが失くなるまで、当時の私は相方といる濱田以外の組合せに何の興味も抱きはしなかった。
同期だろうが親友だろうが、興味は無かった。兄組と呼ばれた人達の中でも明らかな温度差があるのも気に入らなかった。自担の足枷だと感じていた。
そのくせに、BOYS内で少しずつ濱田に傾きだした小さなけれども確かな優勢の空気にニンマリしていた。
まずひとつめは2010年の冬、BBVでコンサートが決まって、その中でシャッフルユニットがあって、桐山濱田浜中の三人でMonsterを披露した。
選ばれたと感じた。
BBVでBの中から選ぶなら桐、Vの中から選ぶなら浜は順当な流れで、今までならだいたいの場合二つ目のBからは大が選ばれることが多かった。BOYSの場合はあまりはっきりしないことも多かったけれど、クレジットの順番や舞台などの立ち位置は大>濱がほとんどだった。
正直、嬉しかった。弟組の勢いに焦りを感じていた中での小さな勝利は私を気持ちよくさせた。
二つ目は、東西歌合戦。
当時の関西Jr.全体からたったの5人選抜の中に兄組からは桐山と並んで濱田がいた。ここでも、相方ではなく濱田が選ばれた。
ひとりでも大丈夫なのではないかと、そんな考えが芽生えていった。
実際(この時期かは不明だが)、本人もひとりでもイケるのではと後の一万字インタビューで語っている。
そんな気持ちを抱えたまま、あけおめに行き、アンコールで彼等から全国ツアーの発表を聞いた。
泣き崩れる者、ハイタッチをして喜び合う者達、ガッツポーズをする者...
鼻を啜る音や拍手の鳴り響く客席の中で、静かに流した涙の味は今でも忘れられない。
後に「全国」ツアーではなく「西日本」ツアーだと知らされても、彼等にとって大きな一歩であったことには変わりない。
記念すべき一発目の地は、広島。BOYSが存在した最後の地。
もっと楽しめば良かった、たとえあけおめと同じセットリストだろうと。
Jr.と担当に約束された「今度」なんてないのに。
次のツアー会場に、BOYSは無かった。
その後もずっと。
信じられなくて信じたくなくて、その後のチケットは譲りに出してしまった。
次に濱田を見たときには、彼は本当にひとりだった。
これは悪い夢だと何度自らに暗示をかけようとしたか分からない。けれども、冷えきった城ホールの空気がそれを許してはくれなかった。
まさにどういう顔をすればいいか分からない私に笑いかけ手を振り返した彼を今でも忘れることが出来ない。
泣き顔と笑い顔はよく似ているのだと、そのとき知った。
それ以降約2年間、関西の現場へ行かなくなった。
濱田担を降りたわけではない。
「ふたり」を失ったことを、現実を受け入れることが出来るようになるまで茶の間でいることにした。濱田だけをもう一度まっすぐに見つめる為に。
その間に彼もいなくなってしまうとは考えたことは無かった。絶対にデビューしてくれる人、するべき人だからと。
根拠のない自信は、好きだからという単純な理由。
約2年かかった。その間、ある一人の男の子を追いかけていた話はまたの機会に。
ごめんね。
もっとBOYSだけを見つめてBOYSだけの良い部分だけを信じてあげれば良かった。あえての「あげれば良かった」、悪いところね悲劇のヒロインぶる癖は。
だいたいごめんねなんて言う資格すらないわ、ヲタクには(笑)
私が謝りたいだけ、ただごめんねと言わせて。
自分を楽にしてあげる為のごめんね。
全力でBOYSを生きた当時の彼等へのごめんね。
今現在もそれだけが心残りな自分へのごめんね。
自分のテリトリーで書きなぐるくらいは許してよ。