子供部屋

硝子のシューズは痛いだけ

濵田崇裕②

つづき

 

 

濱田を好きになり、最後の「関ジャニ∞の」松竹座の夏が始まった。しかし、サマースペシャルでの濱田の記憶はあまりない。この時点ではまだ降りるとまではいかない程度の気持ちだったのだろう。(そしてここでも何故かB.A.D.の記憶はある、こういうところが勝てなかった原因のひとつだったのだろうな…という話はまたいつか)

 

しかしその一ヶ月後、撃ち落とされた。

 

当時の関ジャニ∞レギュラー番組「ほんじゃに」ではEDに歌収録を流すことがあり、それが私にとってJr.のパフォーマンスをじっくりと見る初めての機会だった。

 

B.A.D.が「Magnetic」を披露し後ろから(当時は3人の)BOYSが飛び出してきた。曲はそう「Love or Guilty」(おそらく松竹座でも披露していたのだろうけれども、印象に残っていない。)

 

歌いだしの濱田に心奪われ、思い切り殴られたかのように頭が痛くなった。ゾッとするくらいに冷たい瞳、低くも甘い声、そして何よりも彼が身体に纏う周りのすべてを切り裂くかのような鋭い空気…

 

 

ちょうど8月末に東京で行われた「渋谷すばるwith大倉BAND」(※あの公開処刑ショプバね)のMCで濱田の実家が農家だということやこの夏は茄子の出来が良かったなどのほんわかエピソードを仕入れた直後であったこともあり、そのGAPにHITOMEBOREならぬHUTAMEBORE

 

ここから、本当の意味で濱田担として歩き始めた。

 

後に、彼自身それほどほんわかしたキャラクターではなくむしろ結構尖った部分のある人物であるということが発覚するのだけれど。なんせ僕たち大阪ヤンキー少年、当時の彼(等)を知らずに難波あたりですれ違おうものならば喪の私はくるりと踵を返し小走りで逃げたことだろう。だって喪だもん。

 

今の柔らかい彼に物足りなさを感じることもあるけれど、時折見せる温度も湿度も感じさせない姿は昔のそれに色気もプラスされていてたまらなく良い。そしてその度に離れられないと感じてしまうのである。

 

 

次は濵田崇裕と「関西」について。私にとっての「関西」は2006年~西日本ツアー広島までを指している。中でも一番は2007年、まだデビューなんて夢のまた夢のただただ楽しいだけだった時間は私の宝物。内輪だけで通じる話やネタばかりだった現場、内輪だけだったから許されたもの。

 

今の彼等がそれをすることは許されないけれど、いや当時もけして許されるものではなかったのかもしれないけれど(w)、知っている者としてはいつまでも忘れたくはない「蒼い季節」をときどき取り出してそっと愛でることは許してほしいと思う。