子供部屋

硝子のシューズは痛いだけ

偶像崇拝

跡を濁すかたちでTwitterアカウントを消して少し経った。正確には、Twitter自体は細々と続けているのだが。

 

我ながらかっこ悪い、悪いことをしてしまったと反省している。最後の方は、ジャニーズWESTや濱田君のことを好きな人達が読んだらあまり良い気持ちにはならない言葉も平気で書き連ねていた。

 

 

ごめんなさい

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、市場三郎もワクワク学校での姿もこの目で確かめることをしていないから、今の濱田君がどういうスタンスでアイドルをしているのかいまいち分からないまま、けれどもあえて何も確認しないまま、ありのままの「今の」「私の」「濱田担」としての気持ちを吐き出しておこうと考え、久しぶりにキーボードをたたくことにした。

 

 

私にとっての濱田君は、かっこいい人。初めて気が付いた瞬間からずっとかっこいいところが好きだった。私には「かっこいい」以外の濱田君は目に入らなかった。

 

時折見せる天然(という言葉ではまかないきれないこともある馬鹿な)言動も、呆れながらも、それが彼の真価ではないという勝手で確固たる自信があったから大して気にもならなかった。

 

けれども、デビューしてから、そういった場面で彼のことを「可愛い」と言う人間が増えていった。

スベっても「可愛い」、失敗しても「可愛い」、何をしても「可愛い」という言葉で許される姿が目立つようになった。

 

「可愛い」を受けて嬉しそうに笑う自担を、私は、「かっこ悪い」と思うようになってしまった。

 

「可愛い」を受け入れていいのか、そこで止まってしまったらそこまでのアイドルになってしまう。私はそんなに底の浅い人を好きになった覚えはない。

 

自分よりも少なくとも10歳は年下であろう女の子に「可愛い」と言われることに少しは屈辱を感じないのか。

 

「可愛い」という言葉を発している子(人)達のほとんどは、心から「可愛い」と思っているのだろうし、そこに濱田君を下げるような意味を込めているわけではないというのは頭では理解しているつもりである。

 

それでも、心のどこかがむずむすしてもやもやして落ち着かないのだ。

 

 

 

 

もしかすると、私は彼女たちと同じ「可愛い」濱田君を見ても、そこに「可愛い」を見いだせない、そのことがただただ悔しい、のかもしれない。

 

私の知らない濱田君がいること、私が見つけることの出来ない一面があることが悔しい、のかもしれない。

 

気持ち悪いヲタクなのは重々承知。だけどそれなりに長い時間見てきていて、自分の中にある程度固まった「濵田崇裕」像があるから、そこに綻びが生じることが怖い。

 

 

 

 

だから今は濱田君に触れられない