子供部屋

硝子のシューズは痛いだけ

上を下へのジレッタ

6月13日の公演を観に行った。

 

 

 

 

 

 

門前市郎が横山裕なのか、横山裕が門前市郎なのか。

 

境目が区別が出来なくなる程には門前市郎という名の妄想に捉えられ、彼の紡ぎ出すジレッタに魅了されていた。

 

 

門前市郎はサプライズが好きな男、サプライズに喜ぶ皆の姿が好きな無垢な男、

 

それはまさに横山裕そのもの、メンバーやファンを楽しませる天才、楽しむ姿を見て楽しむ人。

 

門前市郎は漫画の中の男、人間が生み出した架空の男、

 

それもまさに横山裕そのもの、私達ファンの造り出した幻、偶像(アイドル)、ファンの一人ひとりの妄想を押し付けられたり投影されたり、その全てを正解だと肯定してくれる人、その中で生きてくれる人。

 

 

ファンが見る思う感じるアイドルなんてものは本人ではなく彼等が「本人だと思わせてくれる姿」でしかないと考えていて、それは、第三者が正解不正解を口出しできるものなんかではなく、アイドルとファンの間で交わされる約束事のようなもの、一緒に楽しく過ごす為の私達のジレッタの中の決まり事。

 

アイドル側にかかる一方的な負担が大きいのは承知の上で私達は優しさに甘えている。

 

特に…横山裕というアイドルは色々な理想妄想を押し付けられやすい人だと勝手に思っていて、裏とか表とか温とか冷とか、そんな陳腐な言葉では表せられないくらいに掴めない。

 

本当はこういうことはあまり言いたくは無いのだけれども、やはり、彼の生い立ちだったり私達が知る範囲内の人生にこちら側が余計に感情移入したり考察ぶって好き勝手言うことも他の人よりも多いと感じていて、

 

そういう色々が重なり合ってファンのひとり一人の中で横山裕というアイドルが育っていっていく。

 

 

 

 劇中で門前が何度も何度も歌うように、

 

「全て瞞し」

 

「全ては虚構」

 

なのかもしれない。

 

私達が見ている魅せられている横山裕は私達が妄想した彼でなく彼が見せたい彼を妄想させられているのかもしれない。

 

もしかすると、彼自身がジレッタなのかもしれない。